2017年10月22日日曜日

「キレる」ことへ同期しては危ない

 先日のワイドショーで、運転手が「切れて」しまうときは、軽自動車に抜かれた時ということが紹介されていた。ウィンカーを付けないで割り込んだとか、前の車がゆったり走っているときだとか、そういうときに「キレる」症状になるという。これが確かに自分に当てはまることもあるので妙なものだ。ほんとんどの運転者がもってしまう反応とは一体どういうことだろう。

 人と自分とは違うはずのものが、同じ反応に陥るとはおかしなことだ。人間が持っている競争心とか虚栄心のようなものが働くということなのだろうか。しかし、軽自動車に抜かれたからと言って、どうしてやられたと思わなくてはいけないのか。

 アメリカのトランプ大統領が、北朝鮮に対していろいろとちょっかいを出すのも、そういった構造に似ている気もする。生産性も国力もない小国が、「核」兵器を持つなど許されないと。確かにそれはどこの国であっても許されることでないと、だれもが思うことだが、北朝鮮に武力攻撃をちらつかせ、米韓軍事演習でもっぱら圧力をかけることで緊張を高める。

 自動車運転でのトラブルは、暴力をちらつかせ使われることへとエスカレートしていく。挙句のはてにトラックの追突という、余計な偶然まですすんでしまった。なにかのアクシデントにより武力衝突へはいっていくことは、過去の歴史にいくつもある。そのアクシデントさえ、意図的なねつ造ということでもあった。

 日本では凶器を持った犯罪でさえ、「説得」を先とする扱いなはずだ。これは憲法に基づくものだ。「頭にきた」ごときの事柄と同様に、アメリカの提灯持ちのように、先走り従う日本のやり方は危ない。