2017年2月28日火曜日

自然との共生は大事なテーマ

 建築家の安藤忠雄氏が出演しているテレビを見た。その中で共生についての話題があり、設計のときには念頭に置いて活かしているとのことだった。京都の高瀬川沿いに建築した「カフェ チェントチェント 三条店」は注文主を説得して、流れの際までテラスをせり出して作ったという。

 自然を破壊しているという実感からは、せめてものこととするしかないかと思うが、こうしたことがほとんど都市改造には活かされていない。先日ブログ書いた神田川、善福寺川も一部にその気配が残っているだけの、過去ものになっている。

 現在の河川工事は水害予防のためとはいえ、どれだけ配慮がされているのだろうか。昔は河原も広くあり、ドジョウやフナやその他水生生物がいたとのこと。その河原部分を土盛りして、人間の側がせ占めてしまったのだから、生き物が減ったりいなくなるのは当然だ。わずかに残る水草やらザリガニを食餌するカモ、ときおりシラサギが見られるくらいだ。

 キューバの図書館でみた、自然をないがしろにする人間のありようが痛烈だった。地球温暖化の大きな問題を抱えて、パロディにとどめておけないものを感じる。

 ここ3年通った高知の馬路村の安田川河川保全では、近自然工法が取り入れられていた。ここは観光のためという動機もあるが、自然を守るというくくりにいれておきたい。「釣りのため」というのももちろんだが、魚が釣れる環境がどんどん狭まっていることと、自然環境が悪くなっていくことは並行しているのが実感だから。

カフェ チェントチェント 三条店 
神田川
キューバで
高知県安田川

2017年2月24日金曜日

思いだして朝のウォーキング

 620分には目覚ましが鳴って、(昨日セットしておいたから当たり前だけど)伸び体操をしてから起き上がった。このところ時間がぐうたら生活になっているから、起死回生の一発だ。東京に帰ってきて、なにか急に「生活改善」を思い付いた。別に深いわけがあるのではないが、日照時間がどんどん伸びて春が近くなったことが原因かもしれない。実に自然の摂理にすなおに反応したまでのこと。

 変わったことをすると、大丈夫かと自分でも反問してみるが、後ろめたい悪事を働くわけではないから、一大事が起こっても恥をかくことはないだろう。資源ごみを置いてから、神田川を遡るいつもの、最近はさぼっているコースに足を向けると、毎年今頃咲き誇る早咲きの桜が目に留まる。年配のご夫婦が記念撮影をしているのを待ってから、スマホを取り出して2枚撮っておく。歩きながらついブログのネタを考えるのが、ウォーキング時の習慣で、犬の散歩時の排泄に似た現象になっている。

2017年2月21日火曜日

東京までの距離を感じる移動時間

 グーグルカレンダーに書き込んである予定表をみながら、落ち着きを見せている親父に、とりあえずできることは区切りがついたので、東京へ帰ろうかと思った。午前中までの様子もみてから決めようと、ギリギリまで盛岡発の新幹線乗車券のNET予約をしないでおいた。

 盛岡駅着までの余裕を考えて購入するのだが、午後はつなぎの銀河鉄道の本数が減るので、待ち時間が余分にかかる。東京→盛岡間で新幹線の早い方は2時間半だが、これにどうみても小一時間余計にかかる。新幹線や航空機を利用するときはどこへ行く際も同じだが、この余分な時間は馬鹿にできない。海外に行く時よりはよっぽどいいが、家から足を踏み出す習慣を気にしていると、なにをしていても落ち着かない。今日も結局自宅に着くまでは5時間を要した。

 岩手山麓でこのところずっと早寝気味だったので、朝早く目が覚めて「二度寝」状態。目を覚ました時にはもう昼かと思うほどの明るさだった。外を見ると前日降っていた雪がすっかり上がって、まぶしい光が青空を遮って差し込んでいた。今年の雪は少ない、降らないともっぱらの話題だったが、今冬一番の降り様になったとのこと。

 岩手山麓にいる間いろいろと学ぶことが多かった。終末は自分にもかかわってくることであり、だから無下にしてはならないし、されたくもない。何ができるかの自信はさっぱりないが、勉強しつつということになるのだろう。幸いなことに、高齢者問題に対する対応法は、身近な経験も結構あることだし、類する情報はたくさんありそうだ。来月また来るよと言って親父と別れた。




2017年2月19日日曜日

仙人になるにはまだ道が遠いけど、ロゴはどんなのがいいか

 人気(ひとけ)の少ない場所が、仙人になる環境の必要条件でも、それだけではなかなかすまない。人気が煩わしいという気ままなことで移り住んだ。いつか行く道の途中だから、生臭い身のうちでは山も谷もあり、滝に打たれるごとき修行がまだ続くことは覚悟しなくてはならない。動機が気ままなものだったろうから、うるさく言えば最終駅の想定を図式で描くことなどなかったはず。いやたとえあったにしても、日々の雑事か起きることも身体の変化も、単純であっても予定を超えて立ちふさがることがある。これは神が与える試練とでもいえばいいのか。(神は信じないがときどき使わしてもらう身勝手をお許しください)

 身の不幸を嘆くことは人ができることの一つだし、ウロウロと右往左往するのも人間ができる能力だろうから、噛み砕いて味わうのが仙人に近づくことになるのだと思うことにしよう。たしかにおそらくサルではウロウロすることもないに違いない。格調のある人間様として、品格を貶めることのないようにしないと笑われる。

 プレミアムフライデーなる代物がでてきた。政府がやることにつき、またぞろその結果どうなるこうなるという、にぎやかな報道がされた。有給休暇がとれて導入すれば時間ができ、買い物に行けるの、旅行に行くときには早くでかけられるのという、まことに単純な図式で持ち上げる。これで支持率増加に役立つというポチ的(尻尾を振る)内容だ。

 経団連だってちゃんと賃上げは別の問題といっているわけだし、やれるところがやっていけばいいということで、全体を底上げするような話にはなっていない。プレミアムとは上質という意味だが、このよくある「プレミアム…」の実態は、ほぼ割増金が伴う。プレミアムの意味は割増金ということもあるから文字通りのことになる。それゆえ格差を前提としている。

 プレミアムフライデーは政策でもなんでもなくて、やれるところが勝手におやりなさいよというのみで、働く人たち皆に処遇をよくするという代物でない。格差を持ち込むという「現世の当たり前」を、さも良いことのように描くというだけのこと。ご丁寧にも、これをやるのはもっと生産性を向上させることなのだという偽らないコメントもついている。例によって「ロゴ」を使う。

 そういえば「枯葉マーク」なる高齢者対策があった。最初のロゴは、あまりにイメージが貧困だったので、変更するはめになった。高齢者の足をどうするかという、根本の問題に迫っていないゆえに、今度は高者運転の事故が多いとの喧伝によって、自動運転の車開発に期待をかけさせるという誘導を行っている。車を売らんかなのためのミスリードで、車の運転をしなくても間に合う環境、有様からすれば、これも背中を掻くよりも効き目のない「無策政治」だ。これでは品格を保つどころでない。仙人になる道は、まだ当分先の話になってしまう。オリンピックのロゴも、盗作まがいの問題で替えられた。いまどき、ロゴも被害者に貶められる気の毒な立場だ。


2017年2月17日金曜日

人間の脳ミソのわがままな所作

 通帳紛失事件以降少し落ち着きは見せている感じだ。しかし「使い込まれ疑念」が晴れたわけでなく、今度は月々に食料品購買契約で引き落としになっている金額がおかしいと言う。それは取り寄せた商品の一覧表の金額合計と、引き落とし額を照合すれば簡単にわかることなのだが、「裏でやっている」みたいに真顔で言う。

 そんなこと言ってもあり得ないことと、こちらは簡単に理解できるが、本人が納得できない状況(「定期預金が無くなった!」ことへのこだわりなのか)はまだ続いているようだ。毎週の購入一覧表を照らし合わせてと、しっかりと保管してある一覧表を見ることにした。ところが、その一覧表、古いものは無くして(捨てて?)しまったと言う。なくなったというものが後から出てくることは、よくありうること。
これから先のものはちゃんと残しておいてそれで調べようと話して、この件はチョン。

 その後様子を見ていると、同じことは言わなくなっているから、少々落ち着きを取り戻しているのかとも思えるが、どうなのか予測はできない。

 ゴミ捨てに行った道で羽が落ちていた。見渡すと大きい尾羽もあるし、血の跡もある。さてはやられたかなと、スマホで一枚撮る。それをFacebookに載せたのだが、「岩手山麓、ゴミ出しの道で見た。大きな羽根も、落ちていた。自然界は厳しい。これは《「蚊バリ作りにつかえそう》という声も聞こえそう。非常な人間共め。」と書き込んだ。しかし後から、そのとき蚊バリ作りに使えそうと思った自分もあったし、喰われてしまったのは自然の節理の中でのことだったから、それを利用しようとしても、悪行ということではないと、今度は人間の側から都合よく揺れて、笑った。

2017年2月15日水曜日

なくなったペンライト、預金通帳がでてきた。

 前日夜に、いつも枕元に置いてあるペンライトがなくなったと親父が言うので、一緒に探したのに見つからなかった。それが、結局寝る前に布団の間から出てきた。親父のベッドの掛布団はいつも二つ折りできちんと折りたたんである。親父はこういうところは実に几帳面で、昔は「神経質で」とよく周りから言われたものだった。今になるとそれは貴重なことに見えてきた。だいたい自分のことでも、身の回りの物をちゃんと整理するということがどんどん面倒になって、「ここまででいいか」という誘惑に負けることが多々出てくる。だからテレビでよく放映するゴミ屋敷も、きっとそんなことではないのかなと内心思う。

 その持ち味で親父との会話がしっかり展開しないとしても、こんなことではないのだろうかと想像することができる。それが利点とまで言わなくとも、人のなりを知る一つの根拠になりうることだ。東京からここに着いてから、すぐに本人と話をすると、K銀行の定期預金が一つ足りない「使い込みの疑念」を話しだし、ずっと聞いていると、他の預金通帳もないのだといい始めた。「他の通帳」は一緒に探したのだが、ここにあるかという範囲では出てこない。本人の質(たち)からして、なくすはずがないのにと思いながらも、やむを得ず再交付申請に行くことにした。

 HPで預金通帳の再発行方法を調べたところ、当然ながらいくつか必要なものがある。本人確認のための書類や自分とのつながりを証するものも必要だろうと、委任状も作って市役所まで出かけ、戸籍と住民票を手に入れてから銀行にでかけた。親父本人の証明は「顔がわかるもの」は一切ないので、どうかと思っていたところ保険証だけで事が済んでしまって、いささか意外だった。それに親子の証明も口頭で済んでしまったので、思ったよりも簡単に手続きができた。地方ならではのことなのかもしれない。

 通帳とキャッシュカードは早けれ4~5日で郵送されるという説明を聞いて郵便局を出た。家に戻ってから、もし前の通帳が出てきた場合でも、それは使用してはならないこと、新しい通帳の印鑑など注意されたことをメモにして、親父に渡した。一段落したところで、部屋に入ってまたごそごそしていると思ったら、出てきて「通帳とカードがあった」と小さい声で言った。

 いくらか予想したことでもあったので、「そうかー」と言って内心慌てて郵便局へ電話を入れた。当日中なら取り消しできるということで、すぐに郵便局に向かった。印鑑だけ持っていけばいいだろうと、勝手に解釈して行ったところ、出てきた通帳とキャッシュカードを持参しなければ…ということだった。戻ってすべてそろえたつもりで、また普通預金の通帳を待たずに行ってしまい、再度取って返す羽目になった。

 無くなった通帳がでてきて預金が存在することが確認できたのだから、少なくともそれは使われていないということが明確に解って、親父の「誤解」の反証になって結果はオーライだったが、弥次喜多道中みたいな一日になってしまった。しかし、それで解決になったのかどうかは先の話になる。


2017年2月14日火曜日

岩手山麓の少ない雪

 極寒でもおかしくないところなのに、雪が少ない。盛岡市内のほうは、掻いた雪はあるが、道路にはまったく雪がない。親父が今年は雪かき(除雪)少ないと言っていたが、その話は、除雪車が来てくれないと受け取れた。ちょうど山麓に着いた日の夜に降ってきて、夜遅くに除雪していたのを見たので、そう話すと、そうかいという返事がかえってきた。

 預金がなくなっているという思い込みをして、だれかが使っていると妄想みたいなことまで言う。従妹から連絡をもらって、岩手に飛んできて親父の訴える話を聞きながら、通常の話では理解できる状態でないことを感じた。耳も遠くなっているし、話す言葉も不鮮明になっているので、こちらが話す言葉を慎重に選んで、伝わったかどうかを見極めてから次の段階に行く。そんなことの繰り返しが必要になっている。

 それで会話が進むと、本人の「誤解」も少しは解けていくのかと思っているのだが、それで一段落と思うと、また新な「誤解」を持ち出す。またその話を同じようにやり取りする。と、顔つきが和らぐように見える。いくらか納得したのか、聞いてもらったことで満足したのかという風だ。

 8時過ぎに風呂に入ったとき、遠くでサイレンが鳴った。サイレンの後に「…服装は…」と拡声器から聞こえてくる。家に帰らない人がいるのか…。時々こういった放送があるが、暗くなってから聞いたのは初めてだ。風呂からあがって、体が温まったので、懐中電灯を照らして家の近所だけ見てみたが、人気はなかった。

 寝たかと思った親父が、ごそごそと何かを探し始めた。枕元に置いてあるはずのペンライトがないとのこと。一緒に探してみるが見当たらないので、べつの懐中電灯を持たせて、明日探すことにした。


2017年2月12日日曜日

キューバに似合う言葉 その7

 陽気で明るいというイメージのキューバ。子供たちのくったくのない様子、どこでも聞こえるラテンの曲とリズムが、旅による気持ちの高揚によるものだとしたら、楽天的という言葉でもいいと思う。「楽天」の意味が天の与えたものとのと解すると、少々違うが、もうひとつ突っ込むとしたら、ノープロブラム(大丈夫だ いいとも オーケーだ)でもいいかもしれない。

 身体からしても「貧しい」というイメージはない(子供はスラリとした体格で、ある年齢になるとすっかり立派すぎる体格になる。公務員が多いがその賃金は高くないし、退職後の年金も少ないとのことだ。そのガイドさんが、もし食っていけないようなら、近所の病院で食べられると話していた。「最低保証」のしくみがあるわけだ。

 あちこち回ったなかで、ホームレスは見当たらなかったが、まったくいないわけではないとのことだった。ソ連崩壊による経済危機を乗り切って、年12%の経済成長を達成した。観光、ハイテク製品、医療技術(中南米に18000人以上の医師を派遣している)によってのこととされている。大学までの教育費無料により、識字率は先進国並みであり、ユネスコからも称賛を受けている。

 ギリシャのことわざに「愚かな王は、兵を集めて国を滅ぼし。賢き王は、智者を育てて国富ます。」とある。日本にピタリの言葉だが、「知者を育てて国を富ます」はキューバにも当てはまる。しかし、ニューリッチ階層が出現して格差が起きはじめていると言われている。これから先も楽には進まないことかもしれないが、それおも乗り越えていくだろう。(日本から見ると爪の垢でも…という気にもなる。)

丘の上のホテルに宿泊した折、坂の下にあるレストランまで歩いた。途中でどうも山火事らしい様子を見た。食事がすんで坂を上って行くと、消防車が一台と持っていた。言葉はわからないのだが、なにか話しているのに危機感がちっとも伝わってこない。まったくの想像だが、「あれはもうじ き消える」というような態度のようだった。

 翌日のバスの車窓から、雑草が燃えたらしき跡があちこちに見えた。よくあることなのだろうか。そういえばキューバにいた8日間、サイレンの音は聞こえなかった。


2017年2月10日金曜日

キューバの旅 ラテン音楽のノリ その6

 貧しさが、イコール「ビンボー」との嘲笑は適用できない。そんな気がしたキューバの旅だった。日本で「ハグ」をするのは限られた場面しかないが、ツアー現地ガイドさんは知り合いに会うたびにちゃんとハグをするし、街角のどこでも知り合い同士でハグをしている人をしょっちゅう見かける。

 昼食時のレストランはラテンのリズムを演奏を楽しませてくれる。もちろんDVDの販売やチップのためということもあるのだが、キサスキサスキサスやグアンタメラをどこでも演奏してくれる。日本人に知られている曲ということがあるのだろうが、キューバで生まれた曲を日本人が知っているというのも「名曲」たるゆえんなのだろう。その演奏がすべて演奏グループ集団によって違ったものになっている。音楽演奏法の広がりを見せているように思えた。

 バスのガイドさんが、グアンタメラを歌ってくれながら、自分で笑い出してしまった。皆それに乗って大喜び。バスの運転手さんがレストランで、クラーベス(下記画像)の楽器を持ってさあやってみろと、私たちのところを回って歩いたのも、素敵な配慮だった。ともかくとてもノリがいい、貧しいというワードはとても使えない雰囲気のキューバだ。
グァンタナメラ Guantanameraはその歌詞に深い意味があるという。NETで拾った書き込みにあった。
~~~~
 グアンタナモはアメリカ軍基地、ブッシュ前政権の人権侵害の象徴として知られる「グアンタナモ収容所」がある、キューバ南東部の都市です。歌は、それよりずっと前のキューバ。

 グアンタナモの娘に、「俺は正直者、ヤシの木が育つところから来た。死ぬ前に俺の魂の詩を聴いてくれ。俺の詩は、きれいな緑、そして、燃えるような真紅の炎。俺の詩は、森の中で隠れ場所を探している傷ついた鹿。俺は白い薔薇を育てよう、7月に1月のように、俺に親切な手を差し伸べてくれる、誠実な友のために・・・グアンタナモの娘さん」というよう内容の歌です。

 熱烈な恋の歌のようでもあり、キューバ革命を少し知っている人には、国民開放の歌にも聞こえます。歌詞の7月は「726日運動」(M26)1月は195911日のキューバ革命記念日ともとれます。ですから、適当に日本語に意訳すると、キューバの人たちが感じる原曲のイメージとかけ離れたものになります。暢気でお気楽な恋の歌ようでいて、この歌詞、深いでしょ?

~~~

クラベース








2017年2月8日水曜日

キューバの人たちの生活・建物 キューバその5

 我が家は都合40年住んでいる。最初の建売は10年もたつと傷んできた。ベランダの付け根のところにシロアリが巣を作って喰われ、押し入れに水漏れがおきるようになった。やむなく改築することになった。同時に売られた隣接5軒の建売物件は1軒を除いては、今では全部建て替えになっている。建て替えに前後して居住者も入れ替わった。通り側の近所の家もほぼ建て替えられている。家も消費財として、使い捨てまではいかないにしても、どれだけ長く住めるかという基準での選択は難しい。ローンを背負ってようやくその頸木から抜けられるころには、ボロ屋になってしまう。今はそれでもいいほうなのだろうか。

 ヨーロッパでは、中世時代の古い建物が現役で使用ないし利用されているが、キューバがスペインの植民地だった影響を受けていることで、それと似たような中世期の建物の街並みが続いている。古いものというと言葉の響きはよくないが、使えるものを使うという「思想」は、現在の日本の「再開発」と対極にあるような気がする。使用可能なものでも古いものは破壊して、新しい何かを作るということは、そこにあった広い意味での文化構造を、ぶち壊すということにつながる。人間にとってそれが当たり前とされた時には、育んできた人たちにとっては大事なものが、失われてしまうことになるのではないか。経済成長という魔物と、うまい具合に付き合っていくことは大事なことと、よそ者が余計な心配をしてしまう。

 キューバは、今あるものを生かしているということを、ガイドさんの話の中で強調される。児童の学校も、保育園も環境客が行き交う賑やかな街のなかで、旧来の建物を利用して活発な活動がされていた。建物の内装をリニューアルして、賃貸をする予定のところを案内してもらった。その部屋の隣には瀟洒な店が営業していた。























2017年2月5日日曜日

キューバの人たちの生活・車 キューバその4

 今あるものを利用するのは理に適うこと。日本でも着物は浴衣になりおむつになっていった。いまは、大量消費時代を金科玉条にして、さして反省のないまま、あればあるほど良いという感覚が醸造されている。たまたまテレビで見たのだが、「MOTTAINAIもったいない」という言葉を、ケニアのノーベル平和賞受賞者ワンガリ・マータイさんが来日した折に、その意味に感銘して、世界に広げるという決意で実践をしたとのこと。ご本人は亡くなられたが、後継者マリナ・シルバさんも次世代へのメッセージとして世界に広げている。http://www.mottainai.info/jp/about/#anc01
~~~
マリナ・シルバさん
日本語「もったいない」が、マータイさんが取り組む資源の有効活用、3RReduceReuseRecycle)を一言で表す言葉であり、さらに命の大切さや、かけがえのない地球資源に対するRespect(尊敬の念)という意味も込められていることを知り、子供たち、次世代へのメッセージを 含んだ言葉として深く感銘。環境を守る国際語「MOTTAINAI」として世界に広げることを決意しました。
~~~
 「もったいない」というよき共通の概念が、実は日本では薄れてきているのは恥ずかしい限りだ。当たり前のことを絶やさずにしておきたいものだ。キューバで古い建物や年代物の車をみて、この「もったいない」という言葉が頭に浮かぶ。この有様の真っただ中ということが、歩き回って理解できる。

 年代物の乗用車は実用ということはもちろんあるだろうが、観光客を乗せる「お遊び」としてタクシー営業をしている。ツアー同行のメンバーもその車をチャーターして観光地を巡った。観光客は中国製の公営チャーターバスで移動している。新しくはないがオンボロということはない。「足」としては、乗り合いトラック交通が許されていて、廉価な乗車料金で済むらしい。タクシーは「公営」のものがあって、料金が決められているようだ。使うときは黄色のタクシーをとガイドさんから説明された。写真撮影メンバーはこれを利用した。年代物の車も登録することによって、タクシー営業が可能になっている。料金は公営より少し高めとのこと。車が走行する道路では、ときおりガタガタと揺すられることがあるが、長距離の移動は8070キロくらいのスピードで走っている。

 日本の事情と比較すべくもないが、ハバナの市街でも車は結構走っているし、歩行者との行き交いも注意は必要な状態だが、信号機は少ない。今後車が増加していけば、歩行者との対立が拡大していくのだろう。排気ガスをマフラーからだしている車が走っている。交差点では匂いがして気になった。車が故障して、道路端で修理したり修理待ちをしたりしている場面を見かけるが、大事に使うということの表れということになる。年代物の車を何枚か撮影させてもらったが、いずれも自慢げに写真を撮らせて、中には礼まで言うそぶりの運転さんもいた。キューバはどうしてこうも積極的で明るいのかと、驚くばかりだった。