2016年5月16日月曜日

車に依存しているのがよいこととは言えないが。

 車はいらないという話はあまり聞かれない。こんなに聞こえてこないのは、安全神話みたいなことが出来上がっているのではないかと思うくらい。実際、車がないと日常の生活が成り立たないというありようが重いからなのだ。地方の暮らしの中では車に依存しなくては生きていかれない事情ができあがってしまった。「国鉄」が新幹線建設の資金繰りで民間経営に切り替えられ、その影響で地元の足がどんどん切り捨てられたのも、車依存体質を作り上げる結果につながった。

 だが、現実の有り様から必要なものなのだということで、未来永劫も続くということでいいのだろうか。都市部の事情でいえば朝夕の通勤時に混み合うという道路事情は、都市のキャパシティをコントロールしようともしないで、事務所事業所を都市開発という名で暴発させている結果起きているといえるのだろう。車をいかに通すことかだけに腐心して道路工事を始終続け、終わりのない「公共事業」が鼬ごっこのように続けられている。

 早朝の高速道路に東京目指して運び込まれるトラックの群れは、すさまじい数だ。北…のミサイルが原発ならずとも、外れて専用道路を破壊しようものなら、東京の生活はすぐに成り立たなくなる。そんなことないことがないように、政治の働きかけも期待はするものの、見通しはいまのところないようでもある。

 盛岡の岩手山麓も、車への「依存」は抜きさしならない。車がなければ暮らしは成り立たない。ほとんどすべての世帯が車の所有を「余儀なく」されている。その事情は無視できないが、高齢化していく社会が、いつまで乗りきっていけるのだろうか。問題が目先に迫っているのも確かだ。高速道路の入り口を逆走するのはしょっちゅうあるし、昨日もアクセルとブレーキの踏み違いで、高齢者の車が暴走したとの報道がある。こういった暴走が社会の歪からも多くなっているのは、なんとかして防がなくてはならないことだ。

 運転免許に認知機能の検査を取り入れて、危険度を制御することはあっても、では日常の食材はどうするのかとか、医者にはどうやっていけばいいのかというところまでは、「認知」が及んでいない。高速道路の建設だの自動車産業の売り上げだのという心配は目に見えてあるものの、生活スタイルへの配慮にはまことに貧困な政治だ。車社会を見直そうという考えは、多分結構あるのだろうと思うがマスコミを見ている限りでは、ほぼ議論を見ることができない。

 中国やらベトナムの道路で信号がないとか少ないとかということをよく聞くが、道路はもともと人の生活と移動のために必要なもので、車の必要のためにできたものではない。日本は列島隅々で信号機のないところが消えていく。だからどうなのだろう、生活の効率と便利と安全がどんどん浸食されているのだといえないのだろうか。車がなければいいというわけでなく、必要に応じた「利用度」を慮ることをしていかないといけないだろう。

 キューバとアメリカの国交回復が伝えられているが、キューバでの車の使用は、「使えるだけ修理して使う」ことがあたり前になっており、確かにそれはモノを効率的に利用する上では大切なことといえるわけなのだが、一部の高額所得者は新しい車を所有することへの期待があるとされている。アメリカとの平和共存への道に乗り出したのをよしとしても、日本の車社会実情を重ね合わせるとき、どうなっていくことかと気になることではある。キューバの現代アート展で「とろける車?」が展示されたとのこと。そういう意図での作品なのかわからないが、なにか暗示的なものを感じる。