2013年9月21日土曜日

いよいよ釣りの仙人境地入りか

 先日行った渓流釣りのその後の話が盛り上がっている。渓流で転んだり、物を川に落としたり、つりへの気力が萎えたりと、大好きな釣りであるのに、様々な事件が起こるようでは、反省しつつも次回への希望につなげることを考えなくちゃならない。
 
 だいたい、日ごろ物事に慎重面しているのもかかわらず、動きの鈍くなった心と体を、いままでと同じようにこき使っているわけだから、ブラック企業と同様のしうちなのかもしれない。身体を厭えよという脳の指図より、目の前にぶら下がった美味しいものと美味しいお酒をたっぷりいただく。しかも続けてなのだから、これだって疲労とダメージになっていく。アルコールは日常いただいているではないか。それなのに、こういうところで飲む酒は格別だと、いただきすぎるのだから、なにおかいわんやだ。

 釣りは半日くらいにして後は温泉で…と本音を漏らした。観光も悪くない。というより、ご当地の歴史とは触れてみるものだと最近思っている。レトロなもの、いいものに触れあうと癒し効果も得られる。川底ばっかり心配しないで、渓流の美しさを愛でるのもいいじゃないか。てなことを考えていくと、釣り時間がどんどん少なくなっていくからそこは「適正」に。

 楽しみは人により様々だけど、釣りの楽しみはとてもいい。人生で知ってよかった活動だと思う。渓流釣りは特に自然に入り込んで、水と空気と緑の草木に触れて、命の洗濯ができる。ウソも駆け引きも必要なしで、自分が働きかけたことに、真摯なリアクションだけが反ってくる。失敗したら、しかけた自分のやり方を工夫してみる以外に手はない。相手が人間なら失敗を相手のせいにできたところが、そうはできない残酷さもある。怒りが通用しないから、怒ることができないし、その必要が無くなる。渓流にこころ穏やか入って、釣り支度にかかり、段取りよくゆくときは釣りの結果もよい。竿に着ける仕掛けが絡んだり、準備がうまくゆかないことに腹を立てたりすると、不思議とあとの釣りの結果が良くない。そういう微妙さをよく感じる。釣りとて精神修養めいたものを感じるところだ。

 遠野まで行っても魚に放射能汚染がないとは言えない。計るところまでやる気はないが、一関で山菜から高濃度のセシウムが出ているし、岩手の山間の牧場でもでている。そう高いものでないが、渓流に流れ込んでいることだろう。正直なところ、山奥に来てまでそんなことを心配したくはない。自然との融和を楽しみに来ているのだから、あえて考えたくない。考えたらアルコールの量が増えることになる。(アレ、手前勝手)