2013年9月18日水曜日

オリンピック招致の落としどころ

 オリンピック招致を巡って、国民の総意だという雰囲気が造られた。反対するものは「非国民」とまでいう言葉も飛び出した。戦前の「戦争に反対する輩は非国民」というレッテルと似たところがある。「小泉改革」のときもそういった雰囲気がマスコミの扱いで作り出された。ただ持ち上げるだけの軽薄な評価で走り回ることしか日本ではできないのかと空しくなってくる。

 オリンピック招致より福一原発や東日本震災の対策が先ではないかという批判に、当然ながら無視しえずに、「福島の問題も一緒に」「忘れてはいけない」という付け足しをしなくてはならなくなった。
「若者の夢を、元気を」というのは悪いことではない。でも足元では道路だ、新幹線だ、競技場だと「公共事業」を正当化する理由にされているだけではないか。それに社会保障圧縮、消費税増税。復興財源さえ消化しきれない現状、野放しに近い福一原発対策であることを知っているはずが、それをさておいての招致大運動だ。そうとしか纏められない。

 チラホラと震災対策を口にしても、これから急に対策に傾注するという態度になるのか、していくとでもいうのか?
 畏れ多くも、オリンピック招致は「辞退すべき」とSNSに投稿して、ちょっと動揺もしたが、ほかにも辞退説を唱える人がいた。Facebookの投稿では、それに近い意見が多く出されていた。その中に、招致が決まったからといってスタンスを変えるべきでないという辛口のご意見もあった。現在の1000兆円にのぼる財政赤字は、東京オリンピックが始まりだったということを書いている人もいる。

 経済対策=現ネーミングのアベノミクスの大盤ふるまいで、いったい何を手に入れることができるのか、またぞろ財源赤字の累積、社会保障の切り捨て、増税のほかになにがあるのかは見えてこない。膨大な負の部分を抑えて、生活が豊かになっていくこと。そんな夢を若者がみられるのだろうか。少なくとも自民党政治のこれまでのやり方の中にはないとしか思えない。

 福一原発の「収束宣言」、復興資金の「流用」や遅れへの反省は見られない。軌道を変えることは考えられない。考えたはくないが、その可能性は十二分と言っても言い過ぎではない現状だ。としたら、オリンピック招致は日本が負っている、おおきなマイナスを覆い隠すことになるのではないか。日本にも世界に対しても。