2013年1月23日水曜日

体罰、暴力の根源に迫らないと


 暴力はいけない、なぜなら刑罰が科せられているから。というと、簡単に結論は出る。でも実態はそう簡単ではない。主張、要求を理解してもらうのではなく、否応なく呑み込んでもらうという性質で手段だ。相手を尊重するとか、人権を考えるとかという、いわば憲法で言われているような理念や思想は、少しも判断の基準としないで、合意させるとが唯一の形態だ。

 人間は暴力を使う手段を知っている。どうしたら傷つけられるか、場合によっては殺せるか。相手が動物のうちは、殺すことをもって空腹を満たすことが、必要不可欠だった。今も生きていくための手段として、その行動をとっている。人が人に対して暴力を用いる行為は、地球上では圧倒的に減ってきたし、平和に生きる願いは万国共通の課題になってはいる。イスラム過激派テロが横行するアルジェリアでも、議会制民主主義制度が確立している。

 そうでいながら、相手を自分の意見に従わせるための暴力は、相変わらず生活の少なくない分野に幅を利かしている。六本木の暴力団による殺人事件も、いまだに追いかけているし、国会には「自衛隊を増強、国防軍にして」などと、暴力を見せひけらかすことを公然と言い放つ。警察の内部や被疑者への対応、自衛隊の内部にかぎらず、企業の中にさえ時によっては暴力を使った脅かしが存在する。

 桜宮高校の体罰は、妙な解決を市長から圧しつけられて本論の「体罰、暴力をどうやってなくすか」の課題が飛んでしまった。在校生8人の記者会見なるものがあったが、生徒の意見のなかに、普通科に編入されることや先生を全部取り換える不当を訴えるものだったが、暴力否定の言葉はなかった。(あったのにカットしたとは思えないが)


 身の回りにある暴力は、深く我々の中に食い込んでいる。問題解決の手段に使わないこと、使ってはならないこと。これは口では言うのは簡単だが、構造的なものができ上がっている。「暴力によらない」「暴力をなくす」には相当のエネルギーがいる。無くすことを主眼にするなら、例えば苛め問題のように文部科学省が調査したらいかがなものか。

 他に暴力行為はないと思っているわけではないのだから。市長の対応を浮き立たせて、反論する父兄や生徒の反応を取り上げる報道が繰り替えされているが、これまでよりは本質論議になっているとはいえ、総選挙前から「第3勢力」といっておだててきたことが、こういう事態を生んでいることもあるように思う。